江戸時代までの砂防
山の木を切ることを制限
人間が木を切ることによって、とくしゃ地が広がり、土砂災害や水害が増えていくことに対し、国を治める人々がなにも対策(たいさく)を立てなかったわけではありません。
対策はまず、山の木を勝手に切らないようにすることから始まりました。すでに奈良時代の676年に、現在の奈良県の山で木の伐採(ばっさい)を禁止(きんし)する勅令(ちょくれい=天皇の命令)が出されています。これ以降、各時代を通じて、木を切るのを制限したり、取りしまりのための役人を各地に置いたりすることは、何度もおこなわれました。江戸時代には、地方をおさめる藩(はん)が、独自のきまりをつくって木の伐採を制限することなどもありました。しかし、人口の増加にともない、田畑の開発や山の草木の利用がますます増えたことなどによって、こうした対策はあまり効果をあげることはなかったようです。
植樹を義務づけるきまり
そこで、木を切るのを制限するだけでなく、木を植えることを義務づけるきまりなどもつくられるようになりました。江戸時代の初めころ(1666年)に幕府(ばくふ)が示した「諸国山川掟令(しょこくさんせんのおきて)」では、草木を根こそぎ取ることや、河川敷(かせんじき)に新田をつくること、山で焼畑することなどを禁止するとともに、川の上流の木が生えていない山に苗木(なえぎ)を植えるように指導しています。さらに、1684年に幕府は、近畿とその周辺の藩に対し、淀川・大和川の上流において、土砂流出箇所(かしょ)に苗木や芝(しば)を植え付けることを義務付けていますが、これは、たとえ田畑であっても、土砂がくずれているようなところは田畑をつぶして木を植えるように命じるという、きびしいものでした。
このころ、日本のおもな川では、舟による物資の輸送が盛んに行われていました。川にダムなどがなかったため、今のわたしたちが考えるよりもはるかに上流まで、舟が航行(こうこう)していました。とくしゃ地から流れ込む土砂で川が浅くなり、舟が通れなくなることは、土砂災害や水害で田畑や人家が失われるのと同じく、地域の経済発展にとっては大変にこまったことでしたから、幕府も藩も、急いでその対策を立てる必要があったのです。
砂留(すなどめ)による土砂対策
江戸時代には、土砂がたくさん流れる谷川に、砂留または土砂留とよばれる、現在の砂防堰堤(さぼうえんてい)にあたる施設もつくられるようになりました。
砂留には、松の丸太を組み合わせたもの、石を積んだもの、土を高く積んで表面に芝を張ったもの、じゃかごといって石をつめた竹のかごを積み重ねたものなどがありました。大きさはいろいろでしたが、現在の広島県にあった福山藩が、堂々川(どうどうがわ)という川につくった石積みの砂留の1つは、高さが10メートル近くもあり、現在も砂防堰堤としての役目をはたしています。
このほか、木のない山の斜面(しゃめん)に等高線にそって、竹や小枝を編んでつくった柵(さく)を立てたり、斜面の下のほうに松の枝と土をサンドイッチ状に積んで固めたりするなど、雨が降っても土砂が流れていかないような工夫をしています。
社会の混乱で、再びとくしゃ地に
このような工事や施設によって、少しずつですが土砂の移動(くずれたり流れたりすること)が少なくなってくると、植えた苗木も根を張って育つようになり、場所によっては緑がよみがえるところも出てきました。なお、江戸時代も後半になると、田畑の肥料は草や柴(しば)から、ほしか(イワシをほしたもの)や油かす(おもに、なたね油のしぼりかす)などに変わっていきました。その結果、山焼きが前ほどおこなわれなくなったことも、森林の回復にむすびついたと考えられます。
ところが、江戸時代が終わりに近づくと、政治は不安定になり、社会も混乱して規律(きりつ)はゆるんでしまいました。その結果、山の木を勝手に切る人も増えてきました。さらに、明治維新(いしん)後、藩が管理していた森林はみな国のもの(国有林)になりましたが、各藩が200年や300年ものあいだ大切に守ってきたスギやヒノキの森林が、政治の混乱の中で木材として売られてしまったりしたため、それまで豊かな森林があった山でも、一気に木がなくなっていきました。
こうして、明治時代には日本各地で大きな水害や土砂災害が発生することになるのです。