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土砂災害防災のフィールド一般の方々に、土砂災害とその対策について理解していただくこと、またその理解を通じて防災意識を醸成・維持していただくことは、簡単なことではありません。私たちが砂防の広報に携わって30年以上、これまでに培った経験と知識を多面的に活かし、様々な活動の支援や資機材の提供を行います。
砂防フィールド
コミュニティ
スタッフの取材記録などを交えつつ、土砂災害を克服してきた各地の活動紹介や情報提供を行っております。
この場を通じて新しい発見や様々な交流が生まれることができれば幸いです。
6月18日、新潟県十日町市松之山中尾地区を再度訪れました。江戸時代に造られた可能性の高い川岸に残っているトンネルについての情報収集が目的です。
◆昭和32年の請願書
松之山自然休養村センターの図書室へ行ってみました。
「地すべり調査総括書Ⅲ」中頸城地域・東頸城地域(2)偏(1980.9新潟県農林水産部治山課)という資料を見つけました。
中に中尾地すべりが載せられていました。地形地質と地すべりの概要と対策工事について4Pで書かれています。注目点は、昭和32年に中尾集落から提出された「地すべり防止対策についての請願書」の文章が引用されていることです。
「中尾部落は古来多少の地すべりありしも、享保の初期頃大地すべりに会い、住宅を再三移動し現在に至れり。その後といえども中尾川は年々歳々河床を削り、渓谷は深度を増すばかりにて・・・崩潰は止まらず、・・・このままに放置することは中尾部落全体の不幸は申すに及ばず、・・・」
「住民の損害難渋は莫大なる上に、下流に及ぼす影響甚大なる者あり・・・」
また、徳川時代からの地すべり対策工事(第1期工事・第2期工事、内容は堰堤・隧道)の後に、明治時代の第1期から第3期の工事と、昭和23年度工事(いずれも内容は堰堤・隧道)の長さや幅が列記されています。
中尾地区は明治29年にも大きな地すべり移動があったとのことで、トンネルの工事は明治・昭和にも行われたことが分かりました。ただ、時代毎の位置図がなく現場の穴のどれがどの工事なのかはわかりません。数字の一部にミス記載と思われるところもあり疑問は増えてしまいましたが、貴重な情報が得られました。
なお、この請願によってか、平面図には昭和33年から51年と添えられた谷止めの堰堤10基ほどが造られたように記入されています。治山工事と理解しました。
ほか、いくつか、参考になる資料があり、コピーさせていただきました。お世話になった小野塚館長さん、田辺副館長さんにお礼申し上げます。引き続き、このトンネルについてのヒアリングなどを行いたいと思っています。
◆大杉と観音堂について
集落の中ほどにあった樹齢1000年の大木、県指定天然記念物に指定されていた大杉で、地元では「亀杉」と呼ばれていましたが、昨年の新潟・福島豪雨の直後に倒れ、直下にあったいわれのある観音堂も巻き込まれて壊れてしまいました。
地元の方々は、口々に何とかならないものかとおっしゃっていたところでしたが、今回行ってみると再建の工事が始まっていました。詳しい状況はわかりませんが、地域を大切にする人の想いの象徴のようで、明るい話題だと感じられました。倒れた杉も何かに形を変えて残るのかどうか、そのあたりも改めてまた次回、情報集めに行きたいと思っています。
平成24年6月2~3日、緑のまぶしい福井県南越前町で開かれた「田倉川と暮らしの会」15周年イベントに参加してきました。砂防マンの間では「アカタン砂防」を見ないと福井に来たことにならない、と言われるそうです。
2日の土曜日の全プログラム、アカタン砂防ハイクと記念集会(講演会と意見交換)・交流会に参加しました。3日の日曜には2グループに分かれて高倉(こうくら)谷川砂防ハイクと砂防施設の草刈り・整備作業が並行して行われ、砂防ハイクに参加しました。
◆アカタン砂防ハイク
現地を案内説明してくださったのは語り部で旧地区の最後の区長であるゴンパ(権八 実)さんです。
◎9号堰堤
最下流の、土でできた砂防堰堤です。
「明治の豪雨で大平(おおびら)が崩れたとき、この谷の裏側の大鶴目谷では60戸が被災し、15人が亡くなった。
アカタンでは崩れた土砂は一旦止まった。炭を焼いている人が上を見に行った時、ゴウゴウと土砂が出てくる音が聞こえ、急いで山伝いに帰った。雨が上がってから土砂はゆっくりと出た。古木集落では木を切って水はねを造り、夜中も炊き出しをしながら守った。土砂は谷を埋めて止まった。20万立方mという膨大な量で、二次災害の危険があったため、福井県の1期工事に入れられた。」と。
ゴンパさんが子供の頃は写真の田んぼの場所は池だったとのことです。(上流からの写真で、田んぼの先に横一文字に見えているのが9号堰堤。)
◎8号堰堤
流域最大の砂防堰堤で、土で造られ、長さは100m以上。水は左岸側(写真の奥)を流れるようになっています。人が歩いているところが堰堤で、発見当時は全体にたくさんの木が生えていて、取り除くときに、1本だけ残した木が写真の真ん中の木だそうです。下の段は昭和30年頃に追加されたとのことでした。
堰堤天端までは間伐材チップの散策路や手作りの橋、階段などが整備されていました。
◎奥の東堰堤(7号)
石積みの砂防堰堤としては最下流にあり、上部(天端)が曲線になっているのが特徴です。使っている石は流れてきた現場の石で、水通しは岩盤のある右岸側に造られています。表面だけでなく堤体内部もガラ石でできていて、大水の時には水が通る構造になっているとのことでした。
◎松ヶ端(まつがはな)堰堤(6号)
アカタンの石積み堰堤の中で一番大きな石が使われている見応えのある堰堤です。脇には階段が整備されていますが、石積みを登る人もいました。
◎大平中堰堤
谷の合流部にあり、山が迫った複雑な地形です。左岸側に岩盤があり、右岸側に石積みで堰堤を造り、水が岩盤の上を流れるようにしてあります。
下の写真は石積み部分の上に乗ったところです。時間の都合、残念ながら今回のハイクはここまでで折り返しとなりました。
◆高倉谷川砂防ハイク
翌朝もさわやかな晴天に恵まれ、開会挨拶です。
南越前町役場職員の方々や砂防ボランティアさん達は草刈りの準備をして集合していました。
高倉谷川は瀬戸集落のみなさんが「高倉谷川砂防堰堤の会」をつくって発掘や整備をしています。会の伊藤武夫さんが案内と説明をして下さいました。
「もとは草茫々だった。探すと石積み堰堤はいくら行っても続いていた。アブのいない時期を選んで、一人でぼちぼち整備を始めた。平成17年度に会員を募り、会を立ち上げた。12人が会員になった。」とのこと。
高倉谷川流域の砂防施設については、いただいた資料に詳しく書かれていますので、ご覧下さい。
◇高倉谷の石積み砂防資料
https://www.sabopc.or.jp/blogimage/takakuratani01.pdf
◎西高倉1号砂防堰堤
自然の地形を利用し、2m近くの巨礫を積み上げた、荘厳な感じを受ける砂防堰堤です。アカタンにはない記念碑が高倉谷川流域の2個所に残っていますが、その1つがこの堰堤の左袖の上にあります。
◎谷中(たんなか)堰堤
林道から見やすい位置にありました。
上部で水みちを3本に分けてあり、自然の滝のようです。
◎大成口堰堤
豪雪で倒れた木がおい被さって、自然の荒々しさを見せていました。
◎立成1号堰堤
庭園のような流れを演出してあります。自然の理に叶った設計なのでしょうが、どのようにして造られたのか、不思議です。
◎立成2号堰堤
ここにはもう一つの記念碑がありました。
高倉川流域には12基の石積み堰堤があるとのことですが、今回のハイクはここまでとなりました。
明治時代の知恵と技術の高さに圧倒される砂防ハイクでした。
◆イベントを終えて-村人が宝物-
イベント企画者の環境文化研究所の田中保士さんは言います。
「限界集落と言われているが、村人は大切な山を保全している水源集落だと誇りを持っている。さまざまな体験から生きる技をたくさん身につけている。訪れる人は村人に魅力を感じ、山村への関心を高める。村人は歴史的砂防施設とともに、かけがえのない貴い資源」と。
晴れ晴れした表情で地域を語る地元のみなさんの熱い心に接し、元気をいただいて、「この人達こそ地域を越えて日本の宝物だ」と実感しました。
皆さん、どうぞいつまでもお元気で地域自慢を続けてください。
◆鎌倉沢川の砂防施設について
鎌倉沢川は、魚沼丘陵から流れ出して、魚野川に合流する、延長4kmほどの川です。
平成23年7月末、新潟・福島豪雨によって、魚沼丘陵では山崩れが多発しました。
鎌倉沢川には昭和の初期、石積みの砂防堰堤群が造られていたため、上流部の荒廃による下流部への被害はかなり軽減されました。
砂防施設が造られた所以はそばに建てられている砂防碑(石碑)に書かれています。
◇砂防に関する石碑~碑文が語る土砂災害との闘いの歴史~
http://blog.livedoor.jp/spc_mapping/archives/118086.html
この石積み堰堤群は新潟県でも初期に、赤木正男の指導によって設計された記録があり、歴史的に貴重なものですが、新潟・福島豪雨のためにいくつかの砂防堰堤が大きな被害を受けました。
以上の状況は映像にまとめています。
◇地すべり地の歴史を訪ねて
平成23年から24年の冬は豪雪となり、雪質もかなり重い雪と聞いていました。新潟県内では上越市や小千谷市で融雪災害が起きていたため、鎌倉沢川の損傷した砂防施設の雪解け状況が気がかりだったところへ、地元の方からかなりひどいことになっているという連絡を受けました。
そこで、現地に行ってみることにしました。
写真と動画で記録をしましたので、その主なものを掲載して報告します。
なお、管轄する新潟県は、文化財にもなり得る砂防施設であることに配慮して復旧計画を進めているそうです。これからの雨の季節、目が離せない状況です。
◇鎌倉沢川被災状況
◇子持沢被災状況
以上(K.Y)
6月1日、新潟県上越市の板倉地区を訊ねました。
例年より遅れて雪が消え、田植えがやっとほぼ終わったという丈ヶ山(たけのやま)周辺では、農家の庭などにアヤメが色鮮やかです。
◆地すべり資料館
丈ヶ山(たけのやま)の山すそに、板倉区猿供養寺地区に地すべり資料館があります。この資料館は、平成4年10月に“猿供養寺地すべりの観測”、“地すべりに関する資料の保管・展示”・“地すべり災害への意識啓発”の3つを主な目的として、地すべり地の上につくられ、全国初の本格的な地すべり資料館として注目されました。
それから20年近くを経て老朽化が進み、来館者も減っていたことから、平成11年11月11日に“子供たちの防災学習に役立つ資料館”としてリニューアルオープンしたものです。
◇資料館を紹介する上越市のホームページはこちら
http://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/itakura-ku/itakura-ss-05.html
◆リニューアルから半年を過ぎた資料館
館内展示の説明は新潟県ホームページに載せられています。
http://www.pref.niigata.lg.jp/jouetsu_sabou/museum.html
◇猿供養寺砂防フィールドミュージアムパンフレット
https://www.sabopc.or.jp/images/sarukuyou/panf.pdf
子供たちが学習成果をまとめた展示もたくさん貼られていて、利用が進んでいることがわかりました。
◆ここも注目
人柱供養堂のそばの、すべり止めのお札などを置いていた売店もリニューアルされて、地すべり伝説と謎に満ちたサルの伝説の展示場所になっていました。ご来館のときには、こちらも是非ご覧あれ。ボタンを押すとナレーションが流れます。
◆地元の方にお聞きしました
資料館の管理人の一人でもある、「寺野の歴史を語る会」会長の三浦栄一さん(写真右)と安原義一さん(写真左)にお聞きしたところ、リニューアルはタイミングも内容も良かったと感じているとのこと。
特に、地すべり資料館にほど近い上越市板倉区国川(こくがわ)地区で融雪地すべり災害が起きて全国に報道されてから、視察や見学の人が多いそうです。
自然散策や温泉(近くに地すべり対策の砂防工事で出た温泉(しかも2つの違った温泉を引いている)もあるので、たくさんのお客さんにきていただきたいとのことでした。
◇2種類の泉質でくつろげる、ゑしんの里 やすらぎ荘
http://yasuragisou.com/
◇散策は、猿供養寺砂防フィールドミュージアムパンフレット
https://www.sabopc.or.jp/images/sarukuyou/panf.pdf
◇おいしい蕎麦は、そば処いたくら亭
http://www.esinni.com/itakura
《新潟県十日町市松之山エリア》
新潟県十日町市、松之山エリア(旧松之山町)は、日本三大薬湯松之山温泉で知られ、古くからの歴史のある山里です。地すべりと共生してきた地でもあります。
地すべりを止めるために人柱になったモクベエさんの伝説も伝わります。
《中尾地区》
中尾地区は松之山エリアの南部に位置して、中尾川に向かう地すべり地形を成し、斜面に棚田が広がり家々が点在しています。
東日本大震災と連動するように発生した栄村大震災(長野・新潟県境、最大震度6強の地震)で中尾地区にも大きな被害が出たそうです。そこに新潟・福島豪雨とこの春の融雪による土砂災害が重なり、文化財が破壊され、26戸あった住宅が16戸に減ってしまいました。現在も避難生活をされている方があるとのことでした。
《大伴家持ゆかりの地》
中尾地区は、謡曲や長唄によって全国に紹介されている「松山鏡」の発祥の地とされています。
伝説によると――
“「万葉集」の歌人大伴家持が、蝦夷征伐失敗の罪で追われ、この地に隠棲した。やがて土地の女との間に京子という娘を授かる。しかし母親は病で亡くなり、京子は継母となった女に折檻される。母の形見の鏡を胸に抱き池の畔で泣いていた京子は、鏡のような水面に悲しげな母の姿を見た。そして、それが自分の姿とも知らずに「お母さん!」と叫びながら池に飛び込んでしまう。いつしかその池は「鏡ヶ池」と呼ばれるようになった。” (十日町市松之山・浦田地域ポータルサイトから抜粋)
鏡ヶ池は長い間に数度の地すべりのため変容し、様子を変えてしまいましたが、「松山鏡」を後世に伝えるため、昭和61年に「鏡ヶ池公園」として造成されています。
《歴史的な地すべり対策 》
中尾地区には特筆すべき歴史がもう一つあります。“新潟の地すべり98”という本に次のように記されています。
「天保元年(1830年)に中尾集落を中尾川に押し流す地すべりが発生し、約50戸の人家が壊滅した。地元民は惣代利平の指揮のもとに団結して復興に取り組むとともに、自力で地すべり再発防止のための工事を行った。中尾川対岸の岩盤中(西山層砂岩)に捷水隧道を掘削し、この中に川水を通して、河床の洗掘低下による地すべり誘発の防止や土堰堤を築造する等、天保時代としては驚異的な高度な工法を創造している。
また、人家や土蔵の周囲にも松丸太による杭打工を行っており、これらの工法は明治時代にも引き継がれて行われた。」
“日本砂防誌”には、その隧道の一部が現存すると書かれていました。
《現地調査》
そこで、松之山エリア在住で地域づくりを引っ張ってこられた相沢さんにお話ししたところ、中尾地区で心当たりの方があるので、一緒に見にいこうということになりました。
5月23日、雪解けで草が生い茂る前の、一年で一番現場を確認しやすい時期に行ってみました。
まず、川に最も近い住宅(屋号吉池)の高橋平八郎さんにお聞きしてみようということになりました。松之山町会議員を長くお務めになった高橋さんの話によると、2代前、お祖父さんの名前が利平さんだったそうです。地すべり対策工事の中心人物と同じお名前です。年代が違うので代々お名前を継いできたのかも知れません。
その後、長靴に履き替えて川へと下りました。
《今後の課題》
この隧道の存在は2つの本に書かれていましたが、詳しいことがわかりません。出典資料の古文書などを探して確認し、地域の皆さんにも地すべり対策を行った先人のことを知って伝えていただくようにお手伝いが必要と感じました。
また、現場の詳しい調査や必要に応じて保護なども検討するべきではないかと思いました。
なお、江戸時代に地すべり対策でつくられた隧道は南魚沼市後山にもあります。
◆『米どころ後山の昔をたどる』〔9分55秒〕
以上(NK)