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学び伝える

土砂災害を防ぐ、備える、学ぶ、伝える
(防災教育と学習・防災訓練・報道向け資料)

写真等の資料を防災教育や防災学習にご活用ください

大規模な自然災害が重なり、防災に対する国民的関心が、かつてないほど高まっています。 教育現場でも、義務教育課程において、いわゆる「防災教育」が推進されています。ここに集められている写真やイラスト類は、右下の「資料等の提供について」を一読のうえ、お手続きいただければお使いいただけます。動画につきましては当センターの著作物ではないものも含まれますので右上のお問い合わせよりご相談ください。防災教育・防災学習の様々な場面で活用いただけます。

日本の砂防のあゆみ

近代砂防のはじまりと発展

「お雇(やと)い外国人」の登場

   明治政府は、経済発展の基盤(きばん)として、船による物資の輸送を重視していましたが、当時の日本の主要な港のなかには、川から流れこむ土砂で水深が浅くなり、大型船が入れなくなっているところもありました。特に大阪港は、淀川(よどがわ)が運んでくる土砂のために、むかしから何度もうまってしまい、港を移転したり、河口の土砂を取り除いたりすることをくり返していました。明治政府は、この大阪港を新しくつくりなおし、あわせて淀川の改修工事(流れを整えて、水害のない使いやすい川にする工事)をおこなうことを決め、そのための技師者を外国からまねくことにしました。
   このころ、アメリカやヨーロッパの進んだ学問・技術を取り入れ、国内の制度を整備する目的で、政府は数多くの外国人技術者を、大金をはらって日本にまねいていました。いわゆる「お雇(やと)い外国人」とよばれる人たちです。河川の治水・改修や港の建設のためにやってきたのは、おもにオランダ人で、淀川の改修工事を指導したのも、オランダ人の技術者たちでした。

デ・レーケの功績(こうせき)

   オランダ人技術者の1人にデ・レーケという技師がいました。デ・レーケは淀川の改修工事をするにあたって、水源部(すいげんぶ)を調査しました。そして上流にとくしゃ地が広がっているのを見て、まず砂防をおこない土砂の流出をおさえなければ、淀川の改修は成功しないし、大型船が航行できる港もつくれないと政府に訴えました。その結果、1875年(明治8年)、淀川上流の不動川という川に、日本で最初の近代工法による石積みの砂防堰堤(さぼうえんてい)がつくられ、淀川上流にはこれ以降、石積み砂防堰堤が次々と建設されていきました。またデ・レーケは淀川の水源部で、日本のむかしからの技術も取り入れながら、とくしゃ地に木を植える「山腹工(さんぷくこう)」とよばれる工事なども指導しています。
   淀川改修工事の手腕(しゅわん)を認められて、デ・レーケは水害が多発していた木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の改修工事もまかされることになりました。このときも、とくしゃ地となっていた水源部の山々に木を植えること、住民がむやみに木を切るのを禁止(きんし)することなどを政府に提言し、山腹工や、砂防堰堤の建設などを指導しています。
   デ・レーケは、日本で30年間にわたって治水や砂防にたずさわりましたが、「川を治めるには、まず山を治めなければならない」と説いた功績は、非常に大きなものがあります。

オランダの砂防からアルプス地域の砂防へ

   明治の中ごろ(1890年代)になると、さまざまな分野で、外国人に代わって、大学で学び留学も経験したような日本人技術者が、第一線で活躍(かつやく)するようになりました。砂防の分野でも、日本人技術者が事業計画を立てたり、工事を指導したりすることが多くなりました。
   かれらが参考にしたのは、低地が多いオランダの砂防工法ではなく、日本と同じように山がけわしくて急流の川が多い、ヨーロッパのアルプス地域でおこなわれている砂防工法でした。アルプス地域では、木のないあれた山には直接木を植えるのではなく、まず砂防堰堤や柵(さく)などの構造物をつくって流れてきた土砂をため、斜面(しゃめん)を安定させることによって、植物が自然に生えてくるのをうながすという方法をとっていました。
   日本の砂防は、明治初期は、とくしゃ地に木を植える山腹工がほとんどでしたが、やがてアルプス地域にならい、土砂流出の多い渓流(けいりゅう=谷川)に砂防堰堤などをつくる工事が主になっていきます。

日本独自の砂防技術の確立

   1897年(明治30)年、国が砂防事業を進めていくうえでの基本法として「砂防法」が制定されました。
   1899年(明治32年)には、東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に治水や砂防を学ぶ科(森林理水及び砂防工学専攻)が設けられました。1903年にオーストリアからまねかれたアメリゴ・ホフマンは、5年間にわたってここで講義を行い、学生たちにアルプス地域の砂防技術を伝えました。さらに、1912年(明治45年)にオーストリア留学から帰国した諸戸北郎(もろときたろう)は、日本人として初めて「森林理水及び砂防工学講座」の担当教官に就任(しゅうにん)しました。諸戸が書いた「理水並びに砂防工学」という本は、オーストリアやフランスの砂防工学を基礎(きそ)に、土砂災害に関する現象(げんしょう)や対策(たいさく)を説明したもので、昭和の中ごろ(1940年代)まで、もっとも権威(けんい)のある砂防の教科書でした。
   時代が下って1920年代の後半になると、日本人の手による砂防工学の新しい教科書が、次々と書かれるようになりました。またこのころ、内務省(地方行政・警察・土木などを担当していた官庁)の技官であった赤木正雄(あかぎまさお)は、全国の砂防行政を担当するかたわら、富山県の立山(たてやま)にある立山砂防工事事務所の初代所長として、常願寺川(じょうがんじがわ)という川の水源で砂防工事を計画・指導しました。赤木はオーストリアの砂防をさらに発展させ、今日の日本の砂防技術の基礎を築いた人として評価されています。
   このように、海外から伝えられた近代砂防技術は、日本の自然条件や災害の特性、社会環境(かんきょう)に合わせて変更や修正が加えられ、しだいに日本独自の砂防が確立されていったのです。