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土砂災害防災のフィールド一般の方々に、土砂災害とその対策について理解していただくこと、またその理解を通じて防災意識を醸成・維持していただくことは、簡単なことではありません。私たちが砂防の広報に携わって30年以上、これまでに培った経験と知識を多面的に活かし、様々な活動の支援や資機材の提供を行います。
砂防フィールド
コミュニティ
スタッフの取材記録などを交えつつ、土砂災害を克服してきた各地の活動紹介や情報提供を行っております。
この場を通じて新しい発見や様々な交流が生まれることができれば幸いです。
【川原家横丁】
「素人が1時間で建てられる家」があることを皆さんはご存知でしょうか?
和歌山県新宮市に流れる、熊野川の河口付近に、そのような驚きの家が数件並んでいます。
家々は「川原家横丁」と名付けられ、地元の特産品を販売する商店になっています。
川原家横丁の横には、世界遺産に登録されている「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つである「熊野速玉大社」の境内が広がっており、参拝に来た観光客で賑わっていました。
なぜ、このような場所に「1時間で建てられる家」が存在するのでしょうか。
【熊野川の河川敷に存在した集落】
新宮市は和歌山県と三重県の県境にあり、両県の間には一級河川の熊野川が流れています。
熊野川の河口には河川敷が広がっており、現在は新宮市の花火大会や若者たちのBBQ会場として使用されています。
今では地域住民の集いの場所として親しまれているその河川敷に、江戸時代から昭和初期まで、釘を一切使用しない簡易建設の「川原家」と呼ばれる家でできた集落がありました。
この「川原家」が冒頭で紹介した「1時間で建てられる家」です。
このような河川敷に集落ができた理由は、この熊野川の河口が物流と商品取引の中心地だったためです。
スギなどの木材生産が盛んだった熊野エリアでは、山の上流から熊野川を使って木材を運び、河口(川原)の新宮で集散するという流通経路が確立されていました。また、生活物資を運ぶ小舟もすべてこの川原に着きました。更に、関東や東北から訪れた熊野三山(和歌山県南部にある、平安時代から信仰の場として参拝者が多く訪れていた、速玉大社・那智大社・本宮大社の総称)の参拝者や、三重県の人々は和歌山県内に入るためにこの河川敷を使用しました。宿屋・銭湯・飲食店など様々なお店が出ており、なんでも揃う場所として、当時の人々に認識され、大変賑わっていたそうです。
【熊野川の大水とその対策】
熊野の地は昔から雨の多い地域でした。そのため、熊野川も年に5~6回は大水になったそうです。平成23年に発生した紀伊半島大水害は皆さんの記憶に新しいのではないでしょうか。その災害でも熊野川が氾濫し、大きな被害を出しました。昔から大水になり易い地域ということが分かります。
さて、商売の地として栄えた河川敷の集落「川原家」は熊野川が大水になった時、家の水没をどう回避していたのでしょうか。
その答えのキーになるのが、川原家が「1時間で建てられる家」であったことです。
川原家の人々は熊野川が大水になることが分かると、すぐに家を解体しました。そして近くの「上り家」と呼ばれるところへと運び、水が引くと再び元の場所へ戻り、家を組み立てたのです。
組立も解体も、素人が1~2時間でできるよう工夫されていました。年に何度も家の解体と組み立てをし、避難しないといけないとなると、川原家の住民が自分の手で簡単に扱えることが重要だったのです。
【先人の知恵が活かされた川原家】
現在、河川敷には「川原家」は存在しません。
熊野大橋の開通以降、少しずつ川原家が減っていき、昭和20年代には完全になくなりました。日本において最後まで残った川原町がこの熊野川沿いの集落だったそうです。
大雨が降ると変貌する熊野川。時には大きな災害を起こし、人々の生活に支障を来すこともあります。しかし、いつもは穏やかに水が流れ、人々に癒しを与えます。河川敷に集落が存在した時代も、大水が起こる一方で、いつもは商売の地として人々に恩恵を与えてきました。自然の驚異があったとしても、「住み続ける」理由があるのです。
「住み続ける」ために、「川原家」という簡易建築を開発し、自然災害に巻き込まれないように先人は工夫していたのです。どうすれば自然と人間が共存できるのか、我々は先人から学ぶことが多いのではないでしょうか。
「災害を知り、備える」その意識を持つことが、自然と共存し、愛着ある地に「住み続ける」ためには大切なことだと思います。
【現代の川原家】
先人のそのような知恵を後世に伝えようと、当時の川原家を再現して作られたのが「川原家横丁」です。当時のように河川敷には立っていませんが、熊野川河口のすぐそばにあり、地元高校生や観光客で賑わっています。当時はこのような風景が熊野川に沿ってずっと続いていたんですね。
歴史を学び終え、川原家横丁で売られているみかんを購入しました。和歌山県はみかんの山地でもあります。「2袋で100円やで」と声をかけてくださった店員さんと話し、熊野という土地の歴史とそこに住む人の思いを胸に刻み、これからも防災に本気で取り組んで行きたいと思ったのでした。
令和元年8月九州北部豪雨では、8月27日から佐賀県と福岡県、長崎県を中心とする九州北部で集中豪雨が発生し、武雄市では記録的な豪雨で広範囲に浸水などの被害が発生しました。杵島郡大町町では「ボタ山わんぱく公園」の斜面が崩落して県の現地調査が始まったというネットニュース記事を見かけました(9/3佐賀新聞)。
<令和元年九州北部豪雨概要(Wiki)はこちら>
https://ja.wikipedia.org/wiki/令和元年8月九州北部豪雨
子どもの頃の車中での父親の話しを思い出しました。
父親:『あれは「ボタ山」っていうんだ。鉱山を掘った土を捨ててできた人工の山だよ。木が生えて普通の山みたいに見えるけど、自然の山と違って地面が固くないところもあるから、登ったり遊んだりしては危ないよ。」
自分:「あれは?」
父親:『あれはボタ山~』
自分:「あっちは?」
父親:『あれは自然の山~。形をよく見てごらん・・・ボタ山の形は綺麗な三角形に近かっただろ?
人が積んでできたから綺麗な三角形に近いんだよ・・・』
うろ覚えな部分もありますが、飯塚市内のボタ山が見えるところでは、「どれがボタ山?クイズ」や、昔の炭鉱の話しなどを聞いた記憶があります。
私の家は大分市内にあり、実家がある古賀市(当時、粕屋郡古賀町)まで車でよく往復しました。当時は大分自動車道がなく、大分から国道10号線を別府、宇佐と抜け、行橋(ゆくはし)で内陸側に入って飯塚市付近を通って古賀へ向かったと思われます。トータルで4時間近くかかった記憶があります。
こんなボタ山を見ながら話したと思います。<飯塚市 忠隈のぼた山GoogleEarthイメージ>
できた当時のボタ山(Wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%BF%E5%B1%B1
佐賀の「ボタ山わんぱく公園」のボタ山も、炭鉱で採掘した石炭のカスを積み上げた山のようです。「ボタ山」が地図に載っていることも今回改めて知りました。崩れやすい地名として注意が必要かもしれません。
<佐賀のボタ山わんぱく公園について>
http://saga-port.com/2016/02/4273/
(スタッフM)
9月5日(木)、国際協力機構(JICA)のプロジェクトにより来日したスリランカ行政災害管理省国家建築研究所(NBRO)職員5名の研修を受け入れました。
JICAは、スリランカにおける土砂災害対策責任機関であるNBROの能力強化と、土砂災害発生リスクを低減させるため、2019年1月より「土砂災害リスク軽減のための非構造物対策強化プロジェクト」を実施しています。
今回はその第一回本邦研修で、NBRO職員の皆さんは9月1日~14日までの2週間、日本に滞在し、東京や長野などで防災関係機関の研修を受けられます。
当センターは「土砂災害防止のめたの市民支援活動」というテーマで4日目の研修を担当しました。
研修では
・日本の土砂災害と課題
・土砂災害の警戒避難対策
・防災学習/教育事例 等
について、模型や3Dシアターを使用しながら説明しました。
模型や3Dシアターの実演は大いに盛り上がり、スリランカでも使用したいという声があがりました。
NBRO職員の皆さんからは
・「土砂災害警戒情報」を出す基準は何で定義されているのか
・日本では住民が避難しない場合の責任は誰が負うのか 等
の質問があがり、日本とスリランカの防災の違いや、啓発活動の課題についてディスカッションしました。