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土砂災害防災のフィールド一般の方々に、土砂災害とその対策について理解していただくこと、またその理解を通じて防災意識を醸成・維持していただくことは、簡単なことではありません。私たちが砂防の広報に携わって30年以上、これまでに培った経験と知識を多面的に活かし、様々な活動の支援や資機材の提供を行います。
砂防フィールド
コミュニティ
スタッフの取材記録などを交えつつ、土砂災害を克服してきた各地の活動紹介や情報提供を行っております。
この場を通じて新しい発見や様々な交流が生まれることができれば幸いです。
◇津波・高潮ステーション(大阪府)
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/
1.台風が来たとき [PDFファイル/979KB]
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/2007/00000000/1119taihu.pdf
2.地震が来たとき [PDFファイル/1003KB]
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/2007/00000000/1119zishin.pdf
3.津波災害体感シアター(ダイジェスト映像)
https://www.youtube.com/watch?v=iSVTvS49jq8&feature=youtu.be
3連休の最終日、ふと隅田川の起点が見たくなり、散歩がてら自転車で荒川を遡り、
東京都北区志茂にある荒川と隅田川を分岐する岩渕水門を訪ねてみた。
荒川と隅田川の分岐点、対岸のビル群は川口市
岩渕水門は、荒川と隅田川を仕切る水門で、荒川の流量が増えた場合に、
隅田川の洪水を防ぐ目的で大正13年(1924年)に竣工した通称『赤門』と呼ばれる旧水門と
昭和57年(1982年)に竣工した通称『青門』と呼ばれる新水門の2つが存在している。
旧水門『赤門』 新水門『青門』
旧水門については新水門の完成に伴ってその役割を終えてしまったが、土木建築物としての価値が再評価され、
平成7年(1995年)には産業考古学会によって推薦産業遺産となり、
平成11年(1999年)には東京都選定歴史的建造物に指定され、現在も取り壊されることなく保存されている。
現在、新水門は航路確保のための浚渫工事中ではあるが、荒川側の資材置き場の脇には、
この水門を管轄する国土交通省荒川下流河川事務所によって、
岩渕水門インフォメーションなるプレハブ小屋が設けられており、
パネル展示や動画等により、工事概要や荒川の歴史について説明がされていた。
そして、ここから隅田川が始まる。
当センター事務所のあるビルを出て右に行くと、すぐに清洲橋通りに出るが、
その清洲橋通りを挟んだ斜向かいに、少しばかりおどけたような表情の狛犬がいる
金刀比羅宮 (慈愛地蔵尊)なる小さな神社が鎮座する。
その境内に建てられた記念碑によると当地は、このあたりの町名が示すように、
江戸時代は隅田川の浮洲(中洲)で、明治初年に埋め立てられて、
現在の場所に船玉琴平宮が祀られ、産業振興の神として広く崇められたとのことである。
しかし、大正12年の関東大震災によって鳥有に帰したものの、湯浅勘次郎氏の夢枕が機縁となり、
四国琴平宮の御霊を遷座奉祀し広く繁栄の守護神として茲に神殿を建立し、現在の形になったのだそうだ。
また同境内には、千羽鶴が奉納されている慈愛地蔵尊が祀られており、その由来については特に説明がないが、
当地は江戸時代、江戸随一の納涼観月の名所であり、その中洲には歓楽街が造成されていたということで、
この周辺には遊郭も多かったろうし、現在の石柱に『葭町芸妓組合』なる名も彫られていることからも、
あくまでも私的見解ではあるが、この慈愛地蔵は遊女や芸妓等の哀しい想いを受け止めていたのではないかなどと、
推測したりもしている。(苦笑)
私の住まいは、埼玉県羽生市西部を水源とする中川の東京は葛飾区内の堤防のすぐ脇にある。
因みにこの辺は、新中川と分岐する高砂橋付近から荒川と合流する僅か5Kmほどの間に、
数カ所にわたってヘアピンカーブに近い旧カーブを描いている中川七曲と呼ばれており、
昔から水害に悩まされ続けて来た歴史を持っていた。
そんな中川も大正4年に着工された護岸工事と幾度かの改修工事を経て水害の憂いは払拭され、
現在は10年以上前から進められて来た堤防下のテラス化工事もその半分程が完成しようとしている。
その工事区間においては、巨大な杭打ち機を装備した杭打船が護岸沿いに数隻並んで停泊し、
川の中程には様々な種類の工事船舶が行き交い、
水運が盛んだったであろう昭和初期までの頃の様な活気に満ち溢れている。
そして、日の入りが早くなった今の季節には、スカイツリーを遠くに望みながら、
少しばかりではあるが、それなりに趣のある夜景を提供してくれている。