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土砂災害防災のフィールド
ネットワークで繋がろう、広げよう

~言葉はわかりやすく、つくる輪は親しみやすく~

一般の方々に、土砂災害とその対策について理解していただくこと、またその理解を通じて防災意識を醸成・維持していただくことは、簡単なことではありません。私たちが砂防の広報に携わって30年以上、これまでに培った経験と知識を多面的に活かし、様々な活動の支援や資機材の提供を行います。

砂防フィールド
コミュニティ

スタッフの取材記録などを交えつつ、土砂災害を克服してきた各地の活動紹介や情報提供を行っております。
この場を通じて新しい発見や様々な交流が生まれることができれば幸いです。

12月19日 大雪後の山古志

12月19日 大雪後の山古志(新潟県長岡市)を写真でレポートしました。

山古志の住民から「12/17の吹雪は外出するのが恐ろしかった」との声が聞かれました。
我々はその2日後に往訪。滞在中の数時間だけ晴れ間がのぞき、山古志トンネル脇にある
「震災の谷」でいつもながらの定点撮影。

越後三山もばっちりくっきりのラッキー撮影!!

山古志闘牛場付近から見た越後三山

上越国境の山々

木籠地区の入り口に新しい丈夫な看板がお目見え、頑丈になりました。

新潟県中越地震による河道閉塞で水没した木籠集落跡に残る家屋は雪に埋もれ、
10年経過し年々の雪解け時期にはさらに風化が進んでしまうことでしょう。
この家屋群と資料館を併設している直売所の郷見庵には、この1年間で6万人近くの
人たちが見学に来たそうです。地域ではこの水没家屋の保存が望まれています。

今回の大雪の影響で山古志地区内のところどころで小規模な雪崩を目にしました。
ワイヤーネット式の防護設備が新設されていました。

種苧原(たねすはら)地区で毎年開催される「古志の火まつり」会場を見てきました。
こちらは2メートル超の積雪と思われますが子供たちが元気にトレーニングしていました。
次回は2015年3月7日(土)の開催です。当センターでもささやかですが協賛しています。

東竹沢地すべり跡地と東竹沢砂防堰堤もすっかり雪に埋もれましたが、
砂防堰堤が見せる人工の滝が夕日にあたりとても美しい姿が印象的でした。

竜光地区の屋根の雪!!

 

ミャンマー連邦共和国の主要大臣と交流

(社)SBS国際産業人材育成センターの招聘により、ミャンマー連邦共和国からKIHIN MAUNG OOカヤー州首相、SAW HU HU電力・工業大臣、TAW REH経済・計画大臣、SEIN OO民族・教育大臣など8名が来日、12月11日は都内で民間との交流会が開催され当センター職員が参加しました。

交流会では、日本の土砂災害の発生状況と砂防事業による対策、当センターの土砂災害防止啓発活動の内容を紹介しました。
また、ミャンマーで活用いただくための参考資料として土砂災害映像DVD・砂防副読本等を進呈し、今後は当センター「砂防副読本 ミャンマー語版」制作のための相互連携を進めることとなりました。

ミャンマーでは、2008年5月のサイクロン・ナルギス襲来により約14万人が死亡・行方不明、被災者は240万人(国民の約5%)にも及ぶ未曾有の大災害に遭い、我が国を含め世界各国から復興・復旧のための連携支援が現在も行われています。ミャンマーの山間部には少数民族が多数住んでおりサイクロン災害の際も土砂災害発生の報告はあるとのことでした。

道路などは毎年の水害により造っては流される状況、深刻な電力不足に伴いインフラ整備も遅々としている状況であると伺いました。

ミャンマーでは、まだまだ国民のための防災啓発事業への意識は希薄であると、参加者からのお話もありました。

民間ベースではありましたが、これを機にミャンマーへの土砂災害に関しての防災啓発情報の提供を進めるための有意義な交流となりました。

KIHIN MAUNG OOカヤー州首相

SAW HU HU電力・工業大臣、TAW REH経済・計画大臣、SEIN OO民族・教育大臣

アカタン雪中ハイク

平成26年12月7日、福井県は日野川流域田倉川支流のアカタンへ行ってきました。

リトリート田倉付近。早めの寒波が来て、5日から雪を降らせ銀世界。が、
7日朝には青空も覗いて、雪中ハイク体験をさせていただきました。
「田倉川と暮らしの会」と「環境文化研究所」の皆さんにお世話になり、
砂防の歴史遺産、アカタンの砂防堰堤群をめざしました。
リトリート田倉の駐車場を軽トラで出発。

と思ったら、アカタン入口看板まで行かないうちに除雪区間は終わり、歩くことに。

初めて見る「スノーシュー」というものをお借りして、長靴に装着。
サイズ調整ができ、裏にはスパイク付。

 

スノーシューは、雪の上を歩くとき足が雪に埋もれないようにする大きい靴底ツール、日本語なら「カンジキ」。
新雪の上を歩くとスノーシューを付けていても10cmぐらいは埋もれます。

木から時々どっさりと雪が落ちてきます。

ゴキゲン、アヒル歩きです。足を上げてバランスをとるので、なかなか運動になります。

9号、最下流の土堰堤まで来ました。いつもは軽トラであっという間に到着する所、
今回はいい汗をかいてしっかりと距離を体感できました。とは言え、
入口からここまで10分余りだったかな?案外近い。

その上流、8号土堰堤。すっぽり真っ白で端正な姿。

その横では看板と文化財プレートが厚い綿帽子をかぶっていました。

7号の石積み堰堤。右岸側に寄せて造られた水通しは滝のよう。
手前足元の法面で崩れが起きて復旧工事中とのこと。
急な積雪に重機が取り残されていました。

見えてきたお目当ての6号松ヶ端堰堤。ここは下流側の堰堤の堆砂敷になっていて平坦。
ふかふかの雪の上を歩きました。

大きな石を積んだ堤体ですが、1メートル近い雪にすっぽりと覆われ、
堰堤の立札は頭の方だけ見えていました。左手の木のそばに小さく写っています。

堤体のL字に曲がった部分に新しい足跡。鹿か?案内して下さった何人かは姿を見たそうですが、
残念、見逃しました。

雪の松ヶ端を背景に記念撮影。時間も程よく、帰路に。
上り1時間強、下り1時間弱の雪中ハイクでした。
お世話になった皆様、ありがとうございました。
歴史遺産の砂防堰堤達、春になったらまた会いましょう!

 

 

『津波・高潮ステーション(大阪府)』のご紹介

◇津波・高潮ステーション(大阪府)
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/

1.台風が来たとき [PDFファイル/979KB]
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/2007/00000000/1119taihu.pdf
2.地震が来たとき [PDFファイル/1003KB]
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/2007/00000000/1119zishin.pdf
3.津波災害体感シアター(ダイジェスト映像)
https://www.youtube.com/watch?v=iSVTvS49jq8&feature=youtu.be

隅田川の起点『岩渕水門』

3連休の最終日、ふと隅田川の起点が見たくなり、散歩がてら自転車で荒川を遡り、
東京都北区志茂にある荒川と隅田川を分岐する岩渕水門を訪ねてみた。

 

荒川と隅田川の分岐点、対岸のビル群は川口市

岩渕水門は、荒川と隅田川を仕切る水門で、荒川の流量が増えた場合に、
隅田川の洪水を防ぐ目的で大正13年(1924年)に竣工した通称『赤門』と呼ばれる旧水門と
昭和57年(1982年)に竣工した通称『青門』と呼ばれる新水門の2つが存在している。

 

旧水門『赤門』                  新水門『青門』

旧水門については新水門の完成に伴ってその役割を終えてしまったが、土木建築物としての価値が再評価され、
平成7年(1995年)には産業考古学会によって推薦産業遺産となり、
平成11年(1999年)には東京都選定歴史的建造物に指定され、現在も取り壊されることなく保存されている。

 

 

 

現在、新水門は航路確保のための浚渫工事中ではあるが、荒川側の資材置き場の脇には、
この水門を管轄する国土交通省荒川下流河川事務所によって、
岩渕水門インフォメーションなるプレハブ小屋が設けられており、
パネル展示や動画等により、工事概要や荒川の歴史について説明がされていた。
 

そして、ここから隅田川が始まる。

 

金刀比羅宮 (慈愛地蔵尊)

当センター事務所のあるビルを出て右に行くと、すぐに清洲橋通りに出るが、
その清洲橋通りを挟んだ斜向かいに、少しばかりおどけたような表情の狛犬がいる
金刀比羅宮 (慈愛地蔵尊)なる小さな神社が鎮座する。

 

その境内に建てられた記念碑によると当地は、このあたりの町名が示すように、
江戸時代は隅田川の浮洲(中洲)で、明治初年に埋め立てられて、
現在の場所に船玉琴平宮が祀られ、産業振興の神として広く崇められたとのことである。

しかし、大正12年の関東大震災によって鳥有に帰したものの、湯浅勘次郎氏の夢枕が機縁となり、
四国琴平宮の御霊を遷座奉祀し広く繁栄の守護神として茲に神殿を建立し、現在の形になったのだそうだ。

また同境内には、千羽鶴が奉納されている慈愛地蔵尊が祀られており、その由来については特に説明がないが、
当地は江戸時代、江戸随一の納涼観月の名所であり、その中洲には歓楽街が造成されていたということで、
この周辺には遊郭も多かったろうし、現在の石柱に『葭町芸妓組合』なる名も彫られていることからも、
あくまでも私的見解ではあるが、この慈愛地蔵は遊女や芸妓等の哀しい想いを受け止めていたのではないかなどと、
推測したりもしている。(苦笑)

中川七曲の護岸改修工事

私の住まいは、埼玉県羽生市西部を水源とする中川の東京は葛飾区内の堤防のすぐ脇にある。
因みにこの辺は、新中川と分岐する高砂橋付近から荒川と合流する僅か5Kmほどの間に、
数カ所にわたってヘアピンカーブに近い旧カーブを描いている中川七曲と呼ばれており、
昔から水害に悩まされ続けて来た歴史を持っていた。

そんな中川も大正4年に着工された護岸工事と幾度かの改修工事を経て水害の憂いは払拭され、
現在は10年以上前から進められて来た堤防下のテラス化工事もその半分程が完成しようとしている。

その工事区間においては、巨大な杭打ち機を装備した杭打船が護岸沿いに数隻並んで停泊し、
川の中程には様々な種類の工事船舶が行き交い、
水運が盛んだったであろう昭和初期までの頃の様な活気に満ち溢れている。

そして、日の入りが早くなった今の季節には、スカイツリーを遠くに望みながら、
少しばかりではあるが、それなりに趣のある夜景を提供してくれている。

 

 

 

今にも落ちて来そうな朝の空

天変地異の前触れでなければ良いのだが…。

都会の片隅で…

先週末、犬の散歩の途中で見つけたミニ菜園ならぬバケツ田。
この家の子供たちでも育てているのだろうか?
母親の手作りかと思われる可愛い案山子たちが、
そろそろ刈り入れの時期かと思われるそのバケツ田を守っていた。

 

 

 

3年振りの皆既月食

まるで火星のようだ…。