共有する
土砂災害防災のフィールド一般の方々に、土砂災害とその対策について理解していただくこと、またその理解を通じて防災意識を醸成・維持していただくことは、簡単なことではありません。私たちが砂防の広報に携わって30年以上、これまでに培った経験と知識を多面的に活かし、様々な活動の支援や資機材の提供を行います。
砂防フィールド
コミュニティ
スタッフの取材記録などを交えつつ、土砂災害を克服してきた各地の活動紹介や情報提供を行っております。
この場を通じて新しい発見や様々な交流が生まれることができれば幸いです。
《新潟県十日町市松之山エリア》
新潟県十日町市、松之山エリア(旧松之山町)は、日本三大薬湯松之山温泉で知られ、古くからの歴史のある山里です。地すべりと共生してきた地でもあります。
地すべりを止めるために人柱になったモクベエさんの伝説も伝わります。
《中尾地区》
中尾地区は松之山エリアの南部に位置して、中尾川に向かう地すべり地形を成し、斜面に棚田が広がり家々が点在しています。
東日本大震災と連動するように発生した栄村大震災(長野・新潟県境、最大震度6強の地震)で中尾地区にも大きな被害が出たそうです。そこに新潟・福島豪雨とこの春の融雪による土砂災害が重なり、文化財が破壊され、26戸あった住宅が16戸に減ってしまいました。現在も避難生活をされている方があるとのことでした。
《大伴家持ゆかりの地》
中尾地区は、謡曲や長唄によって全国に紹介されている「松山鏡」の発祥の地とされています。
伝説によると――
“「万葉集」の歌人大伴家持が、蝦夷征伐失敗の罪で追われ、この地に隠棲した。やがて土地の女との間に京子という娘を授かる。しかし母親は病で亡くなり、京子は継母となった女に折檻される。母の形見の鏡を胸に抱き池の畔で泣いていた京子は、鏡のような水面に悲しげな母の姿を見た。そして、それが自分の姿とも知らずに「お母さん!」と叫びながら池に飛び込んでしまう。いつしかその池は「鏡ヶ池」と呼ばれるようになった。” (十日町市松之山・浦田地域ポータルサイトから抜粋)
鏡ヶ池は長い間に数度の地すべりのため変容し、様子を変えてしまいましたが、「松山鏡」を後世に伝えるため、昭和61年に「鏡ヶ池公園」として造成されています。
《歴史的な地すべり対策 》
中尾地区には特筆すべき歴史がもう一つあります。“新潟の地すべり98”という本に次のように記されています。
「天保元年(1830年)に中尾集落を中尾川に押し流す地すべりが発生し、約50戸の人家が壊滅した。地元民は惣代利平の指揮のもとに団結して復興に取り組むとともに、自力で地すべり再発防止のための工事を行った。中尾川対岸の岩盤中(西山層砂岩)に捷水隧道を掘削し、この中に川水を通して、河床の洗掘低下による地すべり誘発の防止や土堰堤を築造する等、天保時代としては驚異的な高度な工法を創造している。
また、人家や土蔵の周囲にも松丸太による杭打工を行っており、これらの工法は明治時代にも引き継がれて行われた。」
“日本砂防誌”には、その隧道の一部が現存すると書かれていました。
《現地調査》
そこで、松之山エリア在住で地域づくりを引っ張ってこられた相沢さんにお話ししたところ、中尾地区で心当たりの方があるので、一緒に見にいこうということになりました。
5月23日、雪解けで草が生い茂る前の、一年で一番現場を確認しやすい時期に行ってみました。
まず、川に最も近い住宅(屋号吉池)の高橋平八郎さんにお聞きしてみようということになりました。松之山町会議員を長くお務めになった高橋さんの話によると、2代前、お祖父さんの名前が利平さんだったそうです。地すべり対策工事の中心人物と同じお名前です。年代が違うので代々お名前を継いできたのかも知れません。
その後、長靴に履き替えて川へと下りました。
《今後の課題》
この隧道の存在は2つの本に書かれていましたが、詳しいことがわかりません。出典資料の古文書などを探して確認し、地域の皆さんにも地すべり対策を行った先人のことを知って伝えていただくようにお手伝いが必要と感じました。
また、現場の詳しい調査や必要に応じて保護なども検討するべきではないかと思いました。
なお、江戸時代に地すべり対策でつくられた隧道は南魚沼市後山にもあります。
◆『米どころ後山の昔をたどる』〔9分55秒〕
以上(NK)